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朝倉市議会議員 かげ哲也の公式ブログ

鹿毛哲也の政治活動のブログを展開しています。どうぞご覧下さい。

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3/2 馬田分団夜警への表敬訪問

3/1より春の防火週間が始まり夜警が毎晩行われています。私は2日に表敬訪問を行いました。
日頃よりお仕事を持っている中での夜景参加本当に頭が下がります。馬田校区のためにこれからも精進下さるよろしくお願いいたします。1週間頑張ってください。

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2/26  大刀洗平和祈念館

大刀洗平和祈念館に二男をつれ初めて行ってきた。ここはこの地域の飛行場跡地にまつわる戦時品やゼロ戦等を展示しているところだ。中でも印象に残ったのは、映画があり、当時この地域は非常に栄えていたとのことだった。
やはり栄えるためには何か求心力がなければならないと痛感した。それが何なのか歴史を紐解いていきながら考えていきたい。飛行場の一部には馬田地区も入りやはり栄えていたのだと考えられる。どうすればいいのか日々考えているがなかなか答えは出てこない。人口増と雇用の確保の両立がまず必要だろう。


1916(大正5年)

第一次大戦で飛行機の重要性が認識されたが、わが国でも飛行機の開発や飛行場の整備に乗り出すようになった。陸軍は北部九州の拠点として朝倉郡馬田村(現甘木市)・三輪村、三井郡大刀洗村にまたがる山隈原に着目した。
この地は下記の条件を満たしていた。
①大陸(中国・朝鮮)に近い
②海岸線より40Km 以上ある(艦砲撃射撃の弾が届かない)
③人家が少なく雑木林の広い土地がある
③周囲に障害物がない
④風向きがある程度一定している
(当時の飛行機は風に弱かった。当地域は季節的にほぼ風向きが安定しているが、冷水峠付近は乱気流が多発)
HPはこちら

地下指令壕

かつて太刀洗駅は、そばに「東洋一」と称された旧陸軍大刀洗飛行場があったため、1日の乗降客は1万人以上を数えた。この駅は、十代の少年たちが特攻隊員として鹿児島県の知覧基地などへ旅立つ前に、面会に訪れた家族へ別れを告げた場所でもあった。彼らが歩いたホーム連絡の地下道の出口は、今では待合室として使われている。

1916 大正5 5月 陸軍は三輪村、大刀洗村、馬田村に飛行場用地買収を申し入れる(HP





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2/24 大刀洗ブランチの見学

一般質問の勉強の為大刀洗町役場に行ってきた。新しい公共などや空き古民家再生などに力を入れている。朝倉市もここに力を入れるべきだと感じた。写真は、委託先NPOから雇われ大刀洗に東京などから引っ越してきた職員・・・ポスターや写真などで街づくりの一役を担っていた。


新しい公共とは

 20世紀は、経済社会システムにおいて行政が大きな役割を担った時代でした。しかしながら、経済社会が成熟するにつれ、個人の価値観は多様化し、行政の一元的判断に基づく「上からの公益の実施では社会のニーズが満たされなくなってきました。そして現在、官民の役割分担の見直しが行われ、民間企業や個人と並んでNPOなどの民間セクターが重要な役割を担いつつあります。これまでの行政により独占的に担われてきた「公共」を、これからは市民・事業者・行政の協働によって「公共」を実現しなければなりません。これが「新しい公共」の考え方です。
 その一方で、現在の法律や予算などの制度は既存の枠にとらわれており、「新しい公共」の担い手が利用しやすい制度とはなっていません。そこで、「新しい公共」の担い手の皆さまと協同し、新たな制度や政策を構築するための議論を行い、その「新しい公共」を創出するルール、担い方のルールを定めていかなければなりません。




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