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朝倉市議会議員 かげ哲也の公式ブログ

鹿毛哲也の政治活動のブログを展開しています。どうぞご覧下さい。

2/26  大刀洗平和祈念館

大刀洗平和祈念館に二男をつれ初めて行ってきた。ここはこの地域の飛行場跡地にまつわる戦時品やゼロ戦等を展示しているところだ。中でも印象に残ったのは、映画があり、当時この地域は非常に栄えていたとのことだった。
やはり栄えるためには何か求心力がなければならないと痛感した。それが何なのか歴史を紐解いていきながら考えていきたい。飛行場の一部には馬田地区も入りやはり栄えていたのだと考えられる。どうすればいいのか日々考えているがなかなか答えは出てこない。人口増と雇用の確保の両立がまず必要だろう。


1916(大正5年)

第一次大戦で飛行機の重要性が認識されたが、わが国でも飛行機の開発や飛行場の整備に乗り出すようになった。陸軍は北部九州の拠点として朝倉郡馬田村(現甘木市)・三輪村、三井郡大刀洗村にまたがる山隈原に着目した。
この地は下記の条件を満たしていた。
①大陸(中国・朝鮮)に近い
②海岸線より40Km 以上ある(艦砲撃射撃の弾が届かない)
③人家が少なく雑木林の広い土地がある
③周囲に障害物がない
④風向きがある程度一定している
(当時の飛行機は風に弱かった。当地域は季節的にほぼ風向きが安定しているが、冷水峠付近は乱気流が多発)
HPはこちら

地下指令壕

かつて太刀洗駅は、そばに「東洋一」と称された旧陸軍大刀洗飛行場があったため、1日の乗降客は1万人以上を数えた。この駅は、十代の少年たちが特攻隊員として鹿児島県の知覧基地などへ旅立つ前に、面会に訪れた家族へ別れを告げた場所でもあった。彼らが歩いたホーム連絡の地下道の出口は、今では待合室として使われている。

1916 大正5 5月 陸軍は三輪村、大刀洗村、馬田村に飛行場用地買収を申し入れる(HP





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